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開催中の展覧会

両 国

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 “澱の聲Ⅰ ”     2025     油彩、キャンバス    194.0 x 162.0 cm    ©Kumiko Muroi

室井 公美子
澱の聲を聴く   

2026年5月16日(土) - 6月13日(土)
オープニングレセプション:5月16日 17:00〜19:00

営業時間 :火曜日 – 土曜日  12pm – 7pm日曜・月曜・祝日休み

List of Works
展示風景

 GALLERY MoMo Ryogokuでは、2026年5月16日(土)から6月13日(土)まで、室井公美子による個展「澱(おり)の聲(こえ)を聴く」を開催いたします。

 室井はこれまで、事故や災害、近親者の死といった個人的な体験から、「生と死」あるいは「彼岸と此岸」という根源的なテーマに向き合ってきました。特に東北の山間部での生活を通じ山形の山岳信仰に興味を持ち、その後、遠野のおしらさま、恐山、沖縄の御嶽といった各地の信仰の場を巡る身体的な経験は、彼女の死生観をより深遠なものへと導きました。

 光と闇、記憶と忘却、幸福と空虚、そして「向こう側とこちら側」。室井はこうした相反する要素の“狭間(はざま)”を制作の主題としています。紫や灰色を基調とした、流れるような筆触を持つ背景に、具象とも抽象ともつかない独自の表現様式を確立し、矛盾と形のないものを表出するような画面を作り出しています。

 本展のタイトルにある「澱(おり)」とは、水底に沈殿するもの、あるいは忘れ去られた感情や魂の堆積を指しています。室井にとって、巨木の年輪やおしらさまに重ねられた布、そしてキャンバスに塗り重ねられる絵具の層は、すべて等しく「時間が沈殿したもの」です。

 本展では、これまでの紫や暗い色彩から鮮やかな空を思わせる油彩の大作を展示します。また、モノタイプによる版画、ドローイングまで、具象や沈殿した記憶と対話することで生まれた最新作も並び室井の新たな表現を垣間見ることができるでしょう。

 室井が『具象でも抽象でもなく、その境界そのものを映し出そう』としていると言うように、画面から立ち上がる表現の狭間にある「澱の聲」。私たちが日々の生活の中で見失いかけている「向こう側」の気配を呼び覚ます作品群を、ぜひご高覧ください。 

 

 

 

アーティストコメント

 

彼岸と此岸のあいだに、何があるのだろう。

私は旅をする。山形の山岳信仰、岩手・遠野のおしらさま、青森・恐山、島根・出雲の神域、沖縄の御嶽、そして即身仏——各地の信仰の場を訪ね、そこに息づく時間と気配に身をひたす。それらは観光でも学術調査でもなく、民俗という名の記憶の堆積に、自分の感覚を重ねる行為だ。

 

この国の民俗信仰には、死者や異界との境界を丁寧に扱おうとする意志が通底している。出羽三山に代表される山岳信仰では、山そのものが死者の魂の宿る場とされ、修験者たちは険しい道を歩くことで生と死のあわいを身体で経験してきた。遠野のおしらさまは布を重ねて祀られ、その姿は記憶が層をなして積み上がる様そのものだ。恐山のイタコは、言葉を介して死者を此岸へと呼び戻す。出雲の神域では、八百万の神々が時間と空間を超えて集う。沖縄の御嶽では祖先の霊が森のなかに宿り、ノロやユタと呼ばれる女性たちが霊的な世界と現世を媒介する。即身仏にも幾度か会いに行った。死を意識しながら此岸に留まり続けるその身体は、彼岸と此岸の境界が肉となって結晶したものだ。どの信仰も、死者を遠ざけるのではなく、生活のすぐそばに留め置こうとする感覚から生まれている。

 

青森・恐山を歩いたとき、灼熱の地面と頭上に広がる信じられないほど澄んだ青空が、同時に押し寄せてきた。地獄と天のあわいに、自分の身体がひとつの境界として立っている感覚だった。人があまり訪れなくなった場所に足を踏み入れるとき、水底に沈んでいたものがふわりと浮かび上がるような感覚に包まれることがある。「澱」とは、水底に沈殿するもの、あるいは澱みそのものを指す。澄んだ水の奥にひそむ目には見えない蓄積であり、ときに忘れ去られた記憶や感情、魂の堆積でもある。そこから発せられる「聲」とは、言葉にならない囁き、過去の余韻、存在の根源的な響きだ。

 

巨木を訪ね歩いたこともある。数百年、ときに千年を超える時間を幹に刻みながら、根で大地の底と繋がり、梢で天へと伸びる木々。その前に立つと、自分の身体の小ささと、それでも確かに此岸に立っているという感覚が、同時に押し寄せてくる。巨木の年輪も、おしらさまに重ねられた布も、絵具の層も——すべては澱である。時間が沈殿し、気配が堆積し、やがてひとつの声をかたちづくる。

 

そして今、私は青梅に暮らす。御嶽神社に祀られる大口真神——オオカミを神の使いとして崇めるこの地固有の信仰は、遠い旅先の記憶と静かに響き合う。日々の生活のなかに、彼岸はすでに織り込まれている。

 

私はかつて書道と弓道をしていた。書の一筆には、思考よりも先に身体が動く瞬間がある。弓道の矢が放たれる刹那も同じだ——狙うのをやめたとき、はじめて的に届く。キャンバスの前に立つとき、私はその感覚を思い出す。手が動き、絵具が重なり、消え、残る。雪舟が余白に山の霊気を宿らせたように、私もまた描かれていない部分に「向こう側」を置こうとしている。画面には時間と身体の層が積み重なり、やがてひとつの気配をかたちづくる。

 

夜空に散らばる無数の星は、それ自体では意味を持たない。しかし人は古来、点と点のあいだに線を引き、神話や祈りの形を見出してきた。星座とは、見えないものを可視化しようとする人間の根源的な衝動だ。私がキャンバスに向かう行為も、それに似ている——無数の痕跡のあいだに、かすかな線を引くこと。色彩と物質のあわいに揺れる画面は、具象でも抽象でもなく、その境界そのものを映し出そうとする。彼岸はいつも、此岸の余白のなかにある。そして私たちはいつも、見えないものに線を引きながら、此岸に立っている。

 

2026年 室井公美子

作品解説

澱の聲 Ⅰ

2025 oil on canvas 194.0 x 162.0 cm

まだ、澱んでいない。青と紫が渦を巻き、何かが上へ向かおうとしている。 境界はまだ引かれていない——聲になる前の、声。

沈む前の、揺らぎ。 

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澱の聲 Ⅱ

2026 oil on canvas 194.0 x 162.0 cm

渡れなかったものは、境界の底に沈む。甲州街道を歩き訪ねた山梨の丸石は、長い時間をかけて角を失い、丸くな っていた。越境を果たせなかったものが底に堆積し、やがて獲得する形——それは喪失ではなく、ひとつの完結だ。聲は、底から来る。

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星芒

2024 oil on canvas 116.7 x 91.0 cm

死者の魂は星になると言われてきた。人は点と点のあいだに見えない線を引き、神話の形を見出してきた ——星座とは、見えないものを可視化しようとする人間の最も古い衝動だ。

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浮揺

2026 oil on canvas 116.7 x 91.0 cm

沈んだものは、静かではない。浮かびたい、しかし浮かびきれない ——その宙吊りの運動は、生と死のあいだを漂う魂の呼吸そのものだ。

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2026 oil on canvas  23.3 x 16.0 cm

聖なる空間と俗なる世界を切り分ける床の一線。跨げば変わる。 跨がなければ留まる。しかし閾の上に立ち続けることは、許されない。

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2026 oil on canvas  27.3 x 22.0 cm

水と陸が触れ合う際——渡れなかったものが最後に足を濡らした線。 川辺や海辺の民俗では、汀は生者と死者が言葉を交わす場として繰り返し登場する。

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たそかれ

2026  Colored pencils and acrylics on paper  23.5 x 17.0 cm

昼と夜のあわい——相手の顔が判別できなくなる薄暮の刻。 民俗学において境界が最も薄くなる危険な時間とされ、此岸と彼岸がひとつの息のように重なり合う瞬間。

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やまぎわ

2026 Colored pencils and acrylics on paper  17.0 x 14.0 cm

山岳信仰において、山は死者の魂が宿る場とされてきた。 山と空が接する稜線は此岸の果てであり、天と地のあいだに静かに引かれた一本の境界線。

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山の呼び聲

2026  Monotype  24.5 x 33.5 cm

山が人を呼ぶ、という観念は日本の民俗に広く存在する。 声の主は見えない。しかし耳を澄ませたとき、すでに足は境界を踏んでいる。

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線—境界としての

民俗学において、彼岸と此岸を分かつ境界は「面積を持たない純粋な線」として観念されてきた。川面、門の枠、しめ縄——いずれも空間を内と外に切 り分けながら、それ自体はどちらにも属さない。柳田國男が指摘するように、道祖神や境神は村境・峠・辻といった「線上」に祀られる。境界とは場所 ではなく、あわいそのものである。ファン・ヘネップの通過儀礼論が示すように、線を越える瞬間こそが変容の核心であり、その透過性の制御が生者と死者を隔てている。

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円(丸)—完結した形の霊力

山梨に集中して分布する丸石信仰では、甲州街道沿いや村境に置かれた自然の丸石が神体として祀られてきた。柳田國男は、霊力が宿るのは石そのものではなく「丸い」という形態にあると指摘した。始点も終点もない円は、死と再生の循環を象徴し、角がないがゆえにあらゆる方角の霊的な力に対応できる。世界各地において丸い形が生命の起源・宇宙の原初と結びつくのは、始まりと終わりを同時に内包するからだ。

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